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2024.2.5[チーム]

[ WE ARE GAMBA OSAKA・特別編 / コーチ 遠藤 保仁 ]初めて語った引退。そして、これからのキャリア。(前編)

2005年7月23日 Jリーグ ディビジョン1 第23節 大阪ダービー@万博(〇4-1)

2009年3月10日 AFCチャンピオンズリーグ グループステージ第1節 vs山東魯能@万博(〇3-0)

2013年7月20日 Jリーグ ディビジョン2 第25節 vsヴィッセル神戸@万博(〇3-2)

2014年9月27日 Jリーグ ディビジョン1 第26節 vsサガン鳥栖@万博(〇4-1)

 世間を驚かせた引退発表から3日後の2024シーズンの始動日。遠藤保仁は昨日までそこにいたかのように、ごく自然にガンバ大阪の練習場に姿を現した。4シーズンぶりの古巣復帰とはいえ「ただいま」の言葉もなければ、元チームメイトやスタッフとの再会を過剰に喜ぶ様子もない。だが逆にその姿が、彼がかつてガンバで過ごした20年もの日々を想起させる。
 少し、違和感を感じたことがあったとするなら、着ていた練習着が、選手のそれとは違ったこと。もっとも「僕は大して違和感がなかった」と遠藤。22年から新しいエンブレムになったことを伝えると、少しの間胸のあたりを見やり「言われてみれば確かに! いいね!」と返ってきた。
「12月にC級ライセンスの講習会に行った時にガンバのスタッフ用の練習着と似たような黒っぽいウェアを着ていたし、始動日の2日前にスタッフミーティングでも着ていたからもう慣れた。てか、みんな相変わらず、めちゃめちゃ恵まれた環境でサッカーをしているなー」
 目の前に広がる練習場の青々とした芝生に視線を送る。「ボールを蹴りたくならないですか?」と尋ねると「いやいや、大丈夫。コーチもボールは蹴るから」と笑った。

2020年9月23日 ガンバでのパナスタラストマッチとなったJ1第18節 名古屋戦

■現役続行か、引退か。年を追うごとに膨らんでいった指導者への興味。

頭の中に『引退』の二文字が浮かび始めたのは、ここ数年だったという。

「肌感的にもうやめようかなーって。ただでさえ現代サッカーはハードワークを求められるし、自分が好むスタイルからも遠ざかる傾向にありましたしね。もっとも、選手である限りは試合に出たいので日々の練習も、試合も一生懸命やっていたんですよ。ボールを蹴ればもちろん楽しかったし、どんなスタイルのサッカーも受け入れて、自分なりに工夫してプレーすることへの楽しさも見出していた。でもピッチを離れるともういいかなー、やめようかなーという考えが浮かんでくることが増えたというか。以前からいずれは監督になりたいと考えていた中で、そっちの思いが年々、大きくなっていく感じがあった」

 だからと言って、すぐに答えを出すことはなかったが1年、また1年とキャリアを積み上げるにつれ、頭の中で指導者への興味が膨らんでいく。結果的に初めて指導者ライセンス講習会(C級)に参加したのは今オフだったが、一昨年のシーズンオフにもスケジュールを含めて可能性を探っていたのは、そうした考えもあってのこと。昨シーズンのスタートにあたってもジュビロ磐田の横内昭展監督と藤田俊哉スポーツダイレクターにだけ「今年で現役は最後にするかもしれません」と伝えていた。

「毎シーズン、要所要所で自分なりに思うことはあったんですよ。夏場の日本特有の暑さに『無理!』って感じることが増えたなとか、身体的にここが痛いなー、以前より痛みが取れにくくなったなーとか。フル出場できる試合が減ってきたなーとか。でも、夏が暑いのは今に始まったことではないし、3〜4年くらい前からは『これだけの猛暑の中で40歳の自分が走れないのは、ある意味当たり前よな』と受け入れていましたからね。キャリアを重ねて稼働率が減っていくのだって、ある意味、不思議でもない。特に去年はJ2リーグの特性やチームスタイル、自分のプレースタイルを踏まえてもベンチ外になる試合も出てくるだろうな、と覚悟していましたしね。それに今シーズンは開幕前から横さん(横内監督)とありとあらゆる状況でコミュニケーションを図ってきて、横さんがどういうサッカーをしたくて、どんな考えで選手を起用しているのか。僕を外す理由も含めていろんな話を聞きながら、その都度、頭の中でいろんなことを整理しながら進んできていたので。もちろん、選手である以上、使われないことに納得することはなかったけど使われないなら使われるように頑張ろう、自分なりにサッカーを楽しもうというだけでした」

 実際、昨シーズンのJ2リーグへの出場は、42試合のうち21試合にとどまったものの「だから引退しよう、というふうには思わなかった」と遠藤。ただ、自分の中で少しずつ気持ちのざわつきが大きくなっていっていることは感じ取っていた。

「厳密にいえば暑さや稼働率も多少は影響していたかも知れないけど、そこは経験でクリアできる部分でもありましたからね。だから、試合に出られないから引退しようみたいな感覚ではなかったです。俊哉さん(藤田SD)とは月1回くらいのペースで、横さんとは結構、ちょくちょくそんな話をしていたけど、あくまで、判断基準は自分が選手を続けたいか、続けたくないかだけだったというか。だから、他のチームに移籍することも9割9分考えなかったし、ジュビロが昇格するかしないかも判断材料には入っていませんでした。結果的に昇格できてよかったなーと思ったし、それを理由にすれば綺麗に話はまとまったかもしれないけど(笑)、本当にシーズンが進む中で自然と、もういいかなーって思いが大きくなっていった感じでした」

2023年12月16日「橋本英郎 引退試合」 ガンバ大阪'05 vs日本代表フレンズ にて

■「僕の引退試合だと思っていた」あの日を経て。独自のスタイルを貫き、スパイクを脱ぐ。

 そして、その気持ちに蓋をしてまで現役を続けようとは思わなかった。

「だから、明確にこれという理由はないんです。引退しようと思ったから引退するというだけの話で、それ以上でも以下でもない。包み隠さずに正直に、引退を決めたときの気持ちを言葉にするなら『もう選手は十分!』『これ以上、やることがない!』でしたしね。周りの人たちはもっと理由があるだろうって深掘りしたがると思いますけど、本当にそんな感じです。あとは、さっき言った、選手より指導者に対するモチベーションが圧倒的に大きくなったからそっちを選んだってことくらい。その気持ちに素直に従ったまでです」

 結果的に選手としてのラストマッチになった、12月17日の中村俊輔の引退試合も「実は勝手に自分の引退試合だと思っていた」と笑った。

「シーズンが終わった瞬間にはまだ引退を決めていたわけでもなかったけど、少なからずシュン(中村俊輔)の引退試合の時は自分の中でだけ、僕の引退試合だと思っていました(笑)。でも、めっちゃ幸せでしたよ。前日のハッシー(橋本英郎)の引退試合ではパナソニックスタジアム吹田で懐かしのメンバーとプレーできて、翌日の俊輔の引退試合では日本代表を含めて、長い時間をともにしてきたメンバーとボールを蹴れた。終わった瞬間に素直に『あー楽しかった!』って思えたことからも、最高の引退試合になりました! ま、誰も知らんかったけど(笑)」

 エモーショナルな感情が込み上げてくることも一切なく「もう、これで走らんでいいやん! って思った」のも遠藤らしい。

「あの場面でこっちにパスを通していたらよかったな、とか。あともう5メートルダッシュして戻っていたら失点を防げたな、とか。そんな小さな悔いならありますよ。でも自分が歩んできたキャリアとか、その都度してきた決断には全く悔いはないです。98年に横浜フリューゲルスでプロになったときは漠然と『15年くらいプロ生活を送れたらいいな』としか描いていなかったけど、結果的にそれを大幅に上回る時間をプロサッカー選手として戦えて、ましてや自分のタイミングで『ここで終わり』って引退できたわけですから。そんなふうに、自分の思うタイミング、形で締めくくれたのはすごく幸せだと思っています」

 そうして、1月9日にはジュビロ、ガンバの両クラブから現役引退と古巣でのトップチームコーチ就任が同時発表される。日本サッカー界の歴史に残る圧巻のキャリアを築きながら、最後まで引退会見も、引退試合も行わないという独自のスタイルを貫き、スパイクを脱いだ。

「オフ中の発表で、オフはオフだから休みたいのもあったし、これまで散々、メディアの皆さんに取材をしていただいてきたことを思えば今さら会見をしなくても過去に話した言葉を引っ張り出してきたらどこかに答えはあるでしょ、って思いもありました。それに、引退会見で聞かれそうな質問にもきっと答えられないだろうな、と。例えば『思い出に残る試合は?』『思い出に残るゴールは?』って聞かれても、これだけたくさんの公式戦を戦ってきたら全部は思い出せないし、1つには絞れない。仮に、その場しのぎで何かを挙げたとして、後からゆっくり振り返ったら『あっちの方がめっちゃいいゴールやったやん!』ってなるかも知れないですしね。って考えてたら、会見でも、決めきれません、1つに絞れません、って答えばかりになって『これ、何の時間?』ってなりかねない。それにサッカーは人それぞれ、いいなと思うプレーも違うから。観る側の人たちが自由に僕の好きなプレーを選んで、思い出にしてくれたらそれで十分ですって気持ちもあります」

 J1リーグ出場は、歴代最多を数える672試合、日本代表も同じく歴代最多の152試合出場を数え、J2リーグやカップ戦、AFCチャンピオンズリーグを合わせると実に1100試合を超える公式戦を戦ってきた遠藤だ。確かにその記憶を1つ1つ思い出すのは至難の業だろう。であればこそ、それぞれの思う『遠藤保仁』を胸に刻んでおけばいいのかも知れない。いつだって彼は「ピッチでのパフォーマンスが僕のすべて」という意識で戦ってきたのだから。(後編へ続く)



高村美砂●文 text by Takamura Misa